カナツ技建工業株式会社

今日は「金津 敬 一代記」からいろいろ質問をしますのでお話いただけると喜びます。
全員:宜しくお願いします。

一代記では「この世に生を受けて八十八年。
激動の大正、昭和を生き抜き、平成の世に身を置き、
今思うことは『彼あるが故に吾あり、吾あるが故に彼あり』
『彼なければ吾又なし、吾なければ彼又なし』という
人間社会における不変の真理だ。
このことは八十八年の人生
においても一貫した私の信
念である」と語っておられ
ます。
みなさんこのような金津
会長との思い出を
それぞれお聞かせ
下さい。

平井一嘉:何か目に見えない大きな力によって生かされていると、常に実感しながら生きておられたように思います。人間ひとりの力が如何に小さなものかも実体験として身に染みついていたようです。「社員も社員の家族も皆自分の家族だ」と仰っておられるぐらい家族意識の強い人でした。

吉岡登美男:そうでしたね。私は昭和49年の第1回大会から今日まで継続する会社の運動会。会長とその運動会のお話をした中で覚えていることがありますよ。「社員の家族に参加してもらいたい。朝、社員と一緒に来て欲しい。だから弁当を会社で準備するからと。そして競技を楽しんでもらいたい、でも運動が苦手な人もいる。ならせめて福引の賞品を持って帰ってもらいたい。」とおっしゃっておられました。「家族に愛される会社に」などと言う昨今。会長は何十年も前から「おかげさま」の人であったと思いますね。

平井一嘉:私は家族意識を強くしていただいたきっかけもありましたよ。入社間もない頃の日曜日、突然訪問されて「眠たいから昼寝をさせてくれ」と言われて居間のコタツで一時間くらい昼寝をされ、起きられてから握り飯を食べて、帰り際に家内に向かって「世話になった、今日からみんな親戚だな」とだけ言われて帰られました。

吉岡直樹:それは会長らしいですね。

平井一嘉:そうなのです。会長を見送った後、家内のひと言「いい人に巡り会えましたね」。ついこないだの出来事のように思えます…

吉岡直樹:私は沢山ありますよ。私がまだ現場を担当していた時の話ですが、着工直後だった私の現場事務所が無人状態のときに火災で全焼したことがありました。原因はその後の警察・消防の検証で不審火ということになりましたが、新聞にも掲載されたため翌日現場へ出勤する途中に一人で会長宅へお詫びに伺いました。会長は気さくな人でしたが事が事だけに私は申し訳ない気持と緊張で一杯一杯の状態のままお詫びに伺いました。会長はステテコ姿で玄関に出てこられ、私が状況報告とお詫びを申し上げると「起こったことは仕方ないわや。地元や発注者にきちんと詫びて、これからいい仕事していいものを造るだわ」と言っていただきました。会長は私の上司から概要を聞いておられたようで、叱るというより励ますように言っていただき本当にほっとして会長宅を後にした思い出があります。

平井一嘉:ステテコ姿で怒られたら怖いよね、怒られなくてよかったね。(笑)

吉岡直樹:私は会長が語っておられる「彼あるが故に・・・」の“彼”とは、会長が出会い、教えられ、支えられた個々の人達はもとよりですが、併せて我社が仕事をさせてもらっているこの地域や地域の人達のことを指していると思います。松江周辺では数年前までは梅雨の大雨や大雪などの自然災害がちょくちょく発生しており、当時私は土木部長でしたが我社は市や県からの要請によって災害対応や除雪作業を毎年のように行なっていました。そんな災害対応の最中に会長は必ず携帯電話をかけてこられ、災害状況や復旧作業のことを聞かれ、最後に「大変だろうが、皆さんの力になってあげてくれ」と言って電話を切られていましたが、災害対応の際には頻繁に会長と電話のやり取りをするのでとても身近な存在に感じられたのと同時に、まさに経営信条を地で行く人だなと思ったことを覚えています。

次に3年半のシベリア抑留について質問しますね。
「敗戦から満州時代にソ連のシベリア抑留となったが、その中で金槌とのこぎりなどのほんの少しの道具で、自分たちの住まいを建設することとなり、田原組(会長が初めて就職した地元の会社)で培った技術がそこで活用された。」とあります。
どんな状況でも誇りをもって仕事する会長の仕事に対する姿勢が見受けられます。
みなさんはカナツ技建の受け継がれたこの姿勢を毎日の仕事でどこで感じますか?

平井一嘉:良いことも悪いことも続いた試しはない。どんな状況下にあっても人として、日本人として、建設業に携わるものとしての矜持を無くしてはならないと教えられた。どんな困難にも逃げない、投げ出さない、開き直らない。「天はいつもお見通しだ」という会長の言葉は重いと思います。

吉岡直樹:そうですねぇ。会長は現場第一の人で負けず嫌いの人だったと私は思っています。特に施工部に会長の思いは受け継がれていると思います。「いい仕事をする」「良いものを造る」「他社に負けてはならない」という施工にあたっての基本的な考え方は、安全パトロールなどで現場に行った際の現場担当者の言動などから感じることが出来ます。
これは会長と共に過ごしてきた人が、今の施工部の中にまだ多いからだと思います。今後時を経るに従って会長と共に過ごした社員は減っていきますが、建設業を本業とする限り会長の思いは脈々と受け継がれなければいけないと思います。

吉岡登美男:みなさんそれぞれありますね。私は建築士である会長と事務職である私との間にその本職を通しての関わりはなかったですが、昭和50年の入社直後に驚いた事が二つありました。一つは毎夕5時20分から肩書きや老若男女に関係なく全員参加での本社内の掃除。もう一つはトイレのスリッパの脱ぎ方、次にトイレを使用される人のための脱ぎ方。すなわち仕事はもとより万事において「次工程はお客様」の考え方は今でも掃除と共に社内に生き続けているところです。

次に、シベリア抑留からの帰国について質問します。
わずか二十八で、後の人生はおまけみたいなものと考え、
生きて帰って来たことに感謝し、恩返しをすることを決意し、
戦後の松江の整備されていない道路や建物を見て、建設業を通して郷土に恩返しをする。
とありますがみなさんは建設業という職業やカナツ技建を通して、
どのような思いで仕事に励んでいらっしゃいますか?

平井一嘉:金津会長は、明治から大東亜戦争終結まで続いた「教育に関する勅語」を終生実践された方だと思います。戦後連合国軍により廃止されましたが、現在西欧諸国ではその内容の素晴らしさに注目を集めています。
その一部を紹介しますと「日本国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕しなさい。」(原文ではなく現代語訳をしています)あらためてこの勅語を読むと、まさに会長の生き様そのものであると感じ、見習うべきだと常に思っています。

吉岡直樹:私は今から三十数年前の我社の入社試験の作文に「土木の仕事は自分の天職である」と書きました。それはいよいよ社会人になろうとする自分自身の覚悟を示すために書きましたが、入社後数年は担当する現場をきちんと完成させるということしか頭にありませんでした。しかし経験を積むに従い、自分が携わった仕事が形として残り、それをたくさんの人が利用し、快適な生活や地域の発展に繋がる仕事であると実感できるようになりました。私は元々土木出身であるので余計にそう思うのかもしれませんが、建設業というのは単に自分の生活のためだけの仕事ではなく、自分の働いた成果が地域の発展やたくさんの人の生活に貢献できるとても誇れる仕事であるとの思いを持ち続けています。

吉岡登美男:私は、ちょっとニュアンスが違う回答になりますが、以前どなたかの講演で聴いた話ですが、米国発電所建設プロジェクトの二つのグループで、生産性・効率性・安全性・勤怠状況・作業のやり直し等々において大きな差があったのです。そこでAB両グループの電気工事作業員にヒアリングを行なったのです。
Q…「あなたの任務は何ですか?」と質問すると
Aグループ…「タービン発電機の建設でケーブルを敷設しています。」
Bグループ…「アメリカ南西部一体を明るくしています。」
だったそうです。もちろん大きな成果をあげたのはBでした。
どのような思いで仕事に励むかで成果は大きく違ってくるとそのとき確信したのです。ですので私はさらに「私達は、感動と笑顔と人と未来を創っています。」
そのような思いで仕事に励んでいます。

平井一嘉:自社のコーポレートスローガンですね(笑)

最後になりますが、
金津敬会長が定めた会社の社章「双輪」について質問します。
金津敬会長は幼少期を島根県加賀の集落で過ごされました。
会長の父は大工で地域の修繕などをしておられ、
その時に使われていた道具箱に刻印されていたのがカナツの「双輪」ですよね。
(佐太神社の摂社の神紋にもある。昔の職人は道具箱を他人との区別の
為に利用していた。)
そのカナツの「双輪」「労使」「顧客と社会」「企業と地域社会」という意味をもっていますが、みなさんにとっての「双輪」とは何でしょうか?

平井一嘉:天と地、空と海、太陽と月、人と人、男と女、親と子、右と左、のようにそれはすべて一対のものであり同格である。どちらが欠けても成立しない自然の安定した状態を表していると思う。この安定した状態を保つ方法は、「人の和」であると経営信条にも謳われています。それぞれの個性と癖をうまく組み合わせ、正しい方向に導いていくのが双輪なのかもしれません。

吉岡登美男:流石、平井さんらしい回答ですね。

吉岡直樹:私にとって双輪とは、「カナツ技建工業そのもの」であり、更に大袈裟に言えば、プロパーである私は人生の半分、社会人としての全ての期間を我社と共に過ごしてきたので「自分が生きてきた証」のようなものかもしれません。
同業各社にもそれぞれ社章がありますが、形を見ただけで創業者の思いや企業としてのポリシーが感じ取れる社章は我社の双輪だけであると思っています。

吉岡登美男:会長の信念とされる「彼あるが故に吾あり、吾あるが故に彼あり」「彼なければ吾又なし、吾なければ彼又なし」を確実に表現するものであり、人と人との連携、正に人の和の重要性の象徴であると考えると同時に、会長から私が受けた最も厳しい指導の一言を思い出します。
「吉岡、誰かがやってくれると思ってはいけん!」そう言われていたのを自社の双輪を見ると思い出すのです。

その他、会長についてこれだけは言っておきたい!ということがあればお願いします。

平井一嘉:昭和天皇が崩御された夜、明日皇居へ記帳に行くから出雲空港へ来いとの電話は驚きましたね。あと昼間の怒りは雷鳴がとどろくが如しでしたが、夜の顔は穏やかで慈悲の心に満ち溢れていました。
まだありますよ。ある仏像を収蔵する施設の竣工式で、集まった地元のお年寄り全員(80人ぐらい)を急遽バスを手配して松江でドンチャンさわぎ。30年以上たってもその時の事が地元で語られています。まだまだありますがこの辺で。

全員:すごいですね(笑)

吉岡直樹:私がまだ現場を担当していた頃、会長はよくあちこちの我社の現場を視察されていました。それも突然現場に行かれます。そして現場内を見て歩かれるわけですが、出来映えには厳しく、時には出来上がった構造物を取り壊してやり直しを指示されることもありました。
その後私が土木部長を務めていた頃にも、〇〇の現場が今どんな状況なのか行って見るので案内するようにと本社の朝礼後に突然言われることがありました。初めて言われた時に、現場に突然来られるのはこういうことだったか・・・とも思いましたが、御自身が技術者ということもあってか現場が大好きな人なんだなと思ったことを覚えています。わたしもまだまだありますがこの辺で。

吉岡登美男:私は、昭和49年のある日、私は金津敬社長の面接を受けていました。国内中堅建設会社の現役の事務職である私は、事務ではなく営業職としての誘いに魅力を感じて面接に参加していたのですが、初対面の小柄な紳士は笑顔で言ったのです。

平井一嘉:小柄な紳士って会長ですね(笑)

吉岡登美男:そうです。
「君、商業出てるし、原価管理を担当してくれんか。」と言われたのです。どんぶり勘定が多いと言われた地方の建設業者にあって、金津組が既に個別原価計算を導入している事に驚いたのを覚えていますね。それから入社翌年、昭和51年のある日、私は金津敬社長に晩御飯を誘われてついて行ったのですが、小柄な紳士は再び笑顔で言ったのです。「コンピューターを入れようと思う。君、原価管理やってるし、コンピューターを担当してくれんか。」と地方の建設会社が事務処理に自前のコンピュータを導入しようとしていることに驚きました。
そうことが沢山ありました。会長は常に先を見て、タイムリーに決断される。そして何より人を大切にする小さな巨人であったと思います。

全員:そうですね人を大切にする小さな巨人でしたね。

みなさんありがとうございました。

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